ブラックホールの発見者を語る。
アインシュタインは10年以上にわたって時間、空間、重力の関係を研究し、その成果を1915年に一般相対性理論としてまとめあげ、その中で重力方程式を示した。
重力方程式は物質が存在するとその周囲の空間がゆがみ時間が遅れることや、空間のゆがみが重力となって現れることを表している。
この方程式によって今まで別々のものだと思われていた、時間、空間、物質が結び付けられたのだった。
この方程式は解(答え)を多く持つことは分かっていたが、難解な方程式なので数学者であってもなかなか解を見つけることができなかった。
一般相対性理論の発表から4か月後、ドイツの数学者シュバルツシルトによって解の一つが発見された。
シュバルツシルトの見つけた解は、物質が一点に集まったとき、そのまわりで重力が非常に大きくなり、そこへ一度入った物質が外へ脱出できないことを示してた。
まさにブラックホールの概念だ。シュバルツシルトは、ブラックホールを計算によって発見したのである。
当時、シュバルツシルトの解を知った他の学者達は、このような物体は自然界にはあり得ない、数学上の存在だと考えた。
その後しばらくの間、ブラックホールは理論上の産物であって、自然界には存在しないと思われる時代が長く続いた。
1929年になると、チャンドラセカールが、留学先のイギリスへ向かう船上で白色矮星の質量には上限があることを理論的に導き出した。
質量の大きな恒星は白色矮星になることができず、押しつぶされてブラックホールになると考えたのだ。
当時、白色矮星はすでに発見されていましたが、中性子星は知られていなかった。
チャンドラセカールが白色矮星の上限を超える天体はブラックホールになると考えたのも無理はない。
中性子の発見はその3年後(1932年)、中性子星の理論的予測は4年後(1933年)のことである。
留学先に到着したチャンドラセカールは早速、エディントンに報告するが、エディントンは理論的な検証をしないまま、そのような天体は存在しえないと否定した。
その後も、折に触れ、エディントンはチャンドラセカールの説を攻撃したので、チャンドラセカールは疲れ果て、一時期はブラックホールの研究から遠ざかった。
なお、シュバルツシルトは軍人としてロシアに遠征中にブラックホールの解を発見した。
戦地を離れることができないため、シュバルツシルトはアインシュタインに手紙で解の発見を報告する。
その直後、シュバルツシルトは天疱瘡にかかり43歳でこの世を去った。
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参考文献・サイト
福江純/著「カラー図解でわかる ブラックホール宇宙」ソフトバンククリエイティブ, 2009
「ブラックホールと超新星」ニュートンプレス,2010
Black Holes
Black hole monster in a spin releases energy!
Where are the supermassive black holes hiding?
2011/07/11
2015/06/07